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満州国


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満州国満洲国、まんしゅうこく、、)は、1932年から1945年の間、満州(現在の中国東北部)に存在した国家。

日本領有下の朝鮮および中華民国ソビエト連邦モンゴル人民共和国蒙古自治邦政府と国境を接していた。

概要


満州(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)は 、歴史上おおむね女真族(後に満州族と改称)の支配区域であった。満洲国建国以前に女真族の建てた王朝として、後金(後の)がある。清朝滅亡(1912年)後は中華民国の領土となったが、政情は安定せず、事実上軍閥の支配下に置かれた。1931年(昭和6年)、柳条湖事件に端を発した満州事変が勃発、関東軍大日本帝国陸軍)により満洲全土が占領された。関東軍の主導のもと同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932年(昭和7年)、満洲国の建国に至った。元首(執政、後に皇帝)には清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀が就いた。

愛新覚羅溥儀

満洲国は建国にあたって自らを満州民族漢民族モンゴル民族からなる「満洲人満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」を掲げた。

満洲国は関東軍及び日本政府の強い影響下にあり、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた「満洲国指導方針要綱」、昭和8年8月8日閣議決定。。当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。このことが、1933年(昭和8年)に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となる。その後ドイツイタリアタイ王国など多くの日本の同盟国や友好国が満州国を承認し、外交関係を持つこととなった。

第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日、ソビエト連邦赤軍)による侵攻を受け、8月15日の日本降伏により崩壊。満洲地域はソ連の支配下となり、次いで中華民国の国民政府に返還された。その後の国共内戦における国民政府の敗北により、現在は中華人民共和国の領土となっている。

現在この地域を統治している中華人民共和国や、かつて統治していた中華民国は同地域について「満洲」という呼称を避け、「東北」と呼称している。日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として旧満洲という修飾と共に呼称する。

日本の影響力


当時複数の国が満洲国を国家として承認していた(下記参照)ものの、日本の敗戦とそれに続く極東国際軍事裁判を経て、満洲国は日本の軍事行動により建国され、建国後の国家体制も日本の強い影響下にあったことから、日本の傀儡政権との認識が現在においては一般的である満洲国については、「日本ないし関東軍の傀儡国家と規定するものも少なくない」(山室信一『キメラ-満州国の肖像-』中公新書1138、1993年、p.6、1993年吉野作造賞受賞)「傀儡国家であった満州国」(加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』岩波新書1046、2007年、pi)、「満州事変ののち、関東軍によってつくられた傀儡国家である」(並木頼寿『日本人のアジア認識』世界史リブレット66、山川出版社、p70)。一方で「傀儡国家」ではなかったとする説もある中村粲大東亜戦争への道』(展転社、1990年)・黄文雄『満州国は日本の植民地ではなかった』(ワックBUNKO、2005年)など。中華民国及び中華人民共和国は、現代でも満洲国を歴史的な独立国として見なさない立場から、否定的文脈を用いて「偽満州国」と表記することがある姜念東・解学詩ほか『偽満州国史』(吉林人民出版社、1980年)など

国名


1932年大同元年)3月1日の満洲国佈告1により、国号は「滿洲國」と定められている。日本では第二次世界大戦後、当用漢字字体表(1949年4月28日内閣告示)に従い「満洲国」と表記されるが、「洲」が当用漢字表(1946年11月16日内閣告示)に含まれていないため、文部科学省検定済教科書など教育用図書では同音の漢字による書きかえに基づき、音が同じで字体の似た「州」に書き換え「満州国」と表記する。この国号は、1934年康徳元年)3月1日、溥儀が皇帝として即位しても変更されなかった。ただし、同日施行された組織法の第1条に「満洲帝国ハ皇帝之ヲ統治ス」(「政府公報日訳」による)とあるのをはじめとして、法令や公文書では「満洲国」と「満洲帝国」が併用されるようになった。なお、1934年(康徳元年)4月6日の外交部佈告第5号により、帝政実施後の英称は正称が「Manchoutikuo」または「The Empire of Manchou」、略称が「Manchoukuo」または
「The Manchou Empire」と定められている。

  • 満州の語源として、後金時代に五行思想に基づいてである王朝を継承する王朝であるを構成する民族名として女真蒙古漢族の統合の象徴として「さんずい」で構成される満洲が選ばれた経緯もあり、少なくとも文化的に満州を使用する場合は満洲と記載されるべきとの立場もある。

元号


  1. 大同1932年3月1日-1934年2月28日
  2. 康徳1934年3月1日-1945年8月18日

歴史

誕生の背景

前史


日本の満洲に対する関心は、江戸時代後期に既に現れていた。経世家佐藤信淵は、文政6年(1823年)に著した『混同秘策』で「凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き処より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満洲より取り易きはなし。」と満洲領有を説いた。また、幕末の尊皇攘夷家吉田松陰は『幽囚録』にて、「北は満洲の地を割き、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と似た主張をしている。

日本の生命線


20世紀初期の日本では、すでに外満州沿海州など)を領有し、残る満洲全体を影響下に置くことを企画する帝政ロシア南下政策が、日本の国家安全保障上の最大の脅威とみなされていた。1900年(明治33年)、ロシアは義和団事変に乗じて満洲を占領、権益の独占を画策した。これに対抗して日本はアメリカなどとともに満洲の各国への開放を主張し、さらにイギリスと同盟を結んだ(日英同盟)。ついに日本とロシアは1904年(明治37年)から翌年にかけて日露戦争を満洲の地で戦い、日本は苦戦しながらも優位に展開を進め戦勝国となる。これにより南樺太は日本に割譲され、ポーツマス条約で朝鮮半島における自国の優位の確保や、遼東半島の租借権と東清鉄道南部の経営権を獲得した。その後日本は当初の主張とは逆にロシアと共同して満洲の権益の確保に乗り出すようになり、中国大陸における権益獲得に出遅れていたアメリカの反発を招くことになった。

この状況について当時日本に在住していたポルトガルの外交官ヴェンセスラウ・デ・モラエスは、「日米両国は近い将来、恐るべき競争相手となり対決するはずだ。広大な中国大陸は貿易拡大を狙うアメリカが切実に欲しがる地域であり、同様に日本にとってもこの地域は国の発展になくてはならないものになっている。この地域で日米が並び立つことはできず、一方が他方から暴力的手段によって殲滅させられるかもしれない」との自身の予測を祖国の新聞に伝えているヴェンセスラウ・デ・モラエス『日本通信』 京都外国語大学付属図書館

1917年(大正6年)、第一次世界大戦中にロシア革命が起こり、ソビエト連邦が成立する。日本はシベリア出兵で満洲の北にあるロシア極東に内政干渉を行うも失敗。共産主義の拡大に対する防衛基地として満洲の重要性が高まり、日本の生命線と見なされるようになった。

1934年10月30日岡田内閣朝鮮人の移入によって失業率や治安の悪化が進んでいる日本本土を守ろうと、朝鮮人が満洲に向かうよう満洲国の経済開発を推し進めることを閣議決定している

満洲における状況


満洲は清朝時代には帝室の故郷として漢民族の植民を強く制限していたが、清末には中国内地の窮乏もあって直隷山東から多くの移民が発生し、急速に漢化と開拓が進んでいた。これに目をつけたのが清末の有力者・袁世凱であり、彼は満洲の自勢力化を目論むとともに、ロシア・日本の権益寡占状況を打開しようとした。しかしこの計画も清末民初の混乱のなかでうまくいかず、さらに袁の死後、満洲で生まれ育った馬賊上がりの将校・張作霖が台頭、張は袁が任命した奉天都督の段芝貴を追放し、在地の郷紳などの支持の下軍閥として独自の勢力を確立した。満洲を日本の生命線と考える関東軍を中心とする軍部らは、張作霖を支持して満洲に於ける日本の権益を確保しようとしたが、叛服常ない張の言動に苦しめられた。さらに中国内地では蒋介石率いる国民党が戦力をまとめあげて南京から北上し、この影響力が満洲に及ぶことを恐れた。こうした状況の中、1920年代後半から対ソ戦の基地とすべく、関東軍参謀の石原莞爾らによって長城以東の全満洲を国民党の支配する中華民国から切り離し、日本の影響下に置くことを企図する主張が現れるようになった。

満洲事変


張作霖爆殺事件の現場
詳しくは満州事変を参照。1928年(昭和3年)5月、中国内地を一時押さえていた張作霖が国民軍に敗れて満洲へ撤退した。田中義一首相ら日本政府は張作霖への支持の方針を継続していたが、高級参謀河本大作ら現場の関東軍は日本の権益の阻害になると判断し、独自の判断で張作霖を殺害したとされる(張作霖爆殺事件)。関東軍は自ら実行した事を隠蔽するものの公然の事実となってしまい、張作霖の跡を継いだ一子張学良は日本の侵略に抵抗する意を鮮明にして、日本寄りの幕僚を殺害、国民党寄りの姿勢を強めた。このような状況を打開するために関東軍は、1931年(昭和6年)9月18日満州事変を起こして満洲全土を占領した。張学良は国民政府の指示によりまとまった抵抗をせずに満洲から撤退し、満洲は関東軍の支配下に入った。

また、日本国内の問題として、世界恐慌や昭和恐慌1930年:昭和5年)と呼ばれる不景気から抜け出せずにいる状況があった。明治維新以降、日本の人口は急激に増加しつつあったが、農村、都市部共に増加分の人口を受け入れる余地がなく、1890年代以後、アメリカやブラジルなどへの国策的な移民によってこの問題の解消が図られていた。ところが1924年(大正13年)にアメリカで排日移民法が成立、貧困農民層の国外への受け入れ先が少なくなったところに恐慌が発生し、数多い貧困農民の受け皿を作ることが急務となっていた。そこへ満洲事変が発生すると、当時の若槻禮次郎内閣の不拡大方針をよそに、国威発揚や開拓地の確保などを期待した新聞をはじめ国民世論は強く支持し、対外強硬世論を政府は抑えることができなかった。

誕生


「執政」就任式典
日満議定書の調印式1931年9月18日の柳条湖事件発生から4日後の9月22日、関東軍の満州国領有計画は軍首脳部の反対で独立国家案へと変更された。参謀本部石原莞爾らに溥儀を首班とする親日国家を樹立すべきと主張し、石原は国防を日本が担い、鉄道・通信の管理条件を日本に委ねることを条件に満蒙を独立国家とする解決策を出した。現地では、関東軍の工作により、反張学良の有力者が各地に政権を樹立しており、9月24日には袁金鎧を委員長、于冲漢を副委員長として奉天地方自治維持会が組織され、26日には熙洽を主席とする吉林省臨時政府が樹立、27日にはハルビン張景恵が東省特別区治安維持委員会を発足させた。

1932年2月に、奉天(関東軍により遼寧より改称)・吉林黒竜江省の要人が関東軍司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめた。2月16日、奉天張景恵臧式毅熙洽馬占山の四巨頭が集まり、張景恵を委員長とする東北行政委員会を組織された。2月18日に「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」と、中国国民党政府からの分離独立宣言を発する。

1932年3月1日、元首として清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀満洲国執政とし、上記四巨頭と熱河省湯玉麟内モンゴルジェリム盟長チメトセムピルホロンバイル副都統の凌陞が委員とする東北行政委員会が満洲国の建国を宣言した(元号は大同)。首都には長春が選ばれ、新京と改名された。

その後1934年3月1日には溥儀が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行した(元号康徳に改元(当初は「啓運」を予定していたが、関東軍の干渉によって変更))。国務総理大臣首相)には鄭孝胥(後に張景恵)が就任した。

満洲国をめぐる国際関係


一方、満洲事変の端緒となる柳条湖事件が起こると、国際連盟理事会はこの問題を討議し、1931年12月に、イギリス人の第2代リットン伯爵ヴィクター・ブルワー=リットンを団長とするリットン調査団を派遣することを決議した。1932年3月から6月まで中華民国と満洲を調査したリットン調査団は、10月2日に至って満洲事変を「日本による中国主権の侵害」と判断し、満洲に対する中華民国の主権を認める一方で、日本の満洲に於ける特殊権益を認め、満洲に中国主権下の自治政府を建設させる妥協案を含む日中新協定の締結を勧告する報告書を提出した。9月15日斎藤内閣のもとで政府としても満洲国の独立を承認日満議定書を締結して満洲国の独立を既成事実化していた日本は報告書に反発、松岡洋右を主席全権とする代表団をジュネーヴで開かれた国際連盟に送り満洲国建国の正当性を訴えたが、報告書は総会において42対1(反対は日本のみ)、棄権1(タイ王国)で適切であるとして採択され、日本はこれを不服として1933年3月に国際連盟を脱退する。その後1937年に日本と中華民国は日中戦争支那事変)に突入する。

第二次世界大戦


鞍山製鉄所
大東亜戦争太平洋戦争)の開戦直前の1941年12月4日、日本の大本営政府連絡会議は「国際情勢急転の場合満洲国をして執らしむ可き措置」を決定し、その「方針」において「帝国の開戦に当り差当り満洲国は参戦せしめず、英米蘭等に対しては満洲国は帝国との関係、未承認等を理由に実質上敵性国としての取締の実行を収むる如く措置せしむるものとす」として、満洲国の参戦を抑止しする一方、在満洲の連合国領事館(奉天に米英蘭、ハルビンに米英仏蘭、営口に蘭(名誉領事館))の閉鎖を実施させた。このため、満洲国は国際法上の交戦国とはならず、満洲国軍が日本軍に協力して南方や太平洋方面に進出するということも無かった。しかし、日本の敗戦の色の濃くなった1944年に入ると、同年7月29日に鞍山の昭和製鋼所(鞍山製鉄所)など重要な工業基地が連合軍、特にアメリカ軍ボーイングB29爆撃機の盛んな空襲を受け、工場の稼働率は全般に「等しい低下を示し」(1944年当時の稼動状況記録文書より)たとしている。特に、奉天の東郊外にある「満洲飛行機」では、1944年6月には平均で70%だった従業員の工場への出勤率が、鞍山の空襲から1週間後の8月5日には26%まで下がった。次の標的になるのではという従業員の強い不安感から、稼働率の極端な下落を招く事になった。

1945年5月には同盟国のドイツが降伏し、日本はたった1国でアメリカ、中華民国、イギリス、フランスオランダなどの連合国との戦いを続けることになる。第二次世界大戦もいよいよ大詰めを迎え、太平洋戦線では前年のフィリピンに続き3月には硫黄島が、6月には沖縄が連合国の手に落ち、日本の敗戦はすでに時間の問題となっていた。

ソ連による侵略



そんな中、ソビエト連邦ヤルタ会談において連合国首脳により結ばれた秘密協定に基づき、1946年4月26日まで有効だった日ソ中立条約を破棄して、8月8日に日本に宣戦布告し直後に対日参戦した。この参戦の背景にはスパイゾルゲから得ていた関東軍特種演習の真意に関する情報もあった。まもなくソ連軍満洲国に対しても西外蒙古(モンゴル人民共和国)及び東の沿海州、北の孫呉方面及びハイラル方面、3方向からソ満国境を越えて侵攻した。なお、ソ連は参戦にあたり、日本政府に対しては直前に駐ソ大使に対して宣戦を布告したが、満洲国に対しては、そもそも国家として承認していなかったことから、何の外交的通告も行われなかった。また、満洲国は満洲国防衛法を発動し戦時体制へ移行したが、外交機能の不備、新京放棄の混乱等により最後まで満洲国側からの対ソ宣戦は行われなかった。一方、満洲国防衛する日本関東軍は、日ソ中立条約をあてにしていた大本営により、1942年以降増強が中止され、後に南方戦線などへ戦力を抽出されて十分な戦力を持っていなかった。兵力の数的な不足と同時に、精鋭部隊を失ったことによる戦闘力の弱体化、ソ連侵攻に対抗するための陣地防御の準備が不十分であったことなどにより、国境付近で多くの部隊が全滅し、侵攻に対抗できなかった(ソ連対日参戦を参照)。

そのため関東軍首脳は撤退を決定し、新京の関東軍関係者(主に将校の家族、関東軍の上級関係者たち)は8月10日、いち早く、莫大な資金を安全確保の「武器」として乗せた、憲兵の護衛つき特別列車脱出した。そしてソ連軍の侵攻で犠牲となったのが、主に満蒙開拓移民団員(後述)をはじめとする日本人居留民たちであった。通化への司令部移動の際に民間人の移動も関東軍の一部では考えられたが、軍事的な面から民間人の大規模な移動は「全軍的意図の(ソ連への)暴露」にあたること、邦人130万余名の輸送作戦に必要な資材、時間もなく、東京の開拓総局にも拒絶され、結果、彼らは置き去りにされ、満洲領に攻め込んだソ連軍の侵略に直面する結果になった。

ソ連軍は規律が整っておらず、兵士による数多くの殺傷強姦略奪事件が発生した。8月14日には葛根廟事件が引き起こされた。また日本人の強引な土地収奪などから開拓団に恨みを持つ満洲族や漢族、朝鮮族による殺害事件もあり、多くの開拓者が南方へ避難した。しかし脱出不能との判断から、集団自決により命を失った者も多数にのぼった。中には、シベリアや外蒙古、中央アジア等に連行・抑留された者もいる。

この混乱の中、一部の日本人の幼児は、肉親と死別したりはぐれたりして現地の中国人に保護され、あるいは肉親自身が現地人に預けたりして戦後も大陸に残った中国残留日本人孤児が数多く発生した。その後、日本人は新京大連などの大都市に集められたが、日本本国への引き揚げ作業は遅れ、漸く1946年から開始された(葫芦島在留日本人大送還)。その間多くの餓死者・凍死者・病死者を出したとされる。

一方ソ連軍の侵攻は満洲国内で日本人による抑圧を受けていた中国人、朝鮮人、蒙古人にとっては『解放』であり、彼らの多くはソ連軍を解放軍として迎え、当初関東軍と共にソ連軍と戦っていた満洲国軍や関東軍の朝鮮人・漢人・蒙古人兵士らのソ連側への離反が相次ぎ、結果として関東軍の作戦計画を妨害することになった。

滅亡


皇帝溥儀をはじめとする国家首脳たちはソ連の進撃が進むと新京を放棄し、朝鮮にほど近い通化省臨江県大栗子に避難していたが、8月15日に行われた日本の昭和天皇による「玉音放送」で戦争と自らの帝国の終焉を知る。2日後の8月17日に、国務総理の張景恵が主宰する重臣会議は満洲国の廃止を決定、翌18日未明には溥儀が大栗子の地で退位の詔勅を読み上げ、満洲帝国は誕生から僅13年で滅亡した児島、3巻、283~292頁。。退位詔書は20日に公布する予定であったが、実施できなかった。

旧満州国政府は治安維持委員会に改組したが、8月24日にソ連軍の指示で解散された。溥儀は退位宣言の翌日、通化飛行場から飛行機で日本に亡命する途中、奉天でソ連軍の空挺部隊によって拘束され、通遼を経由してソ連のチタの収容施設に護送された。そのほか、旧政府要人も8月31日に一斉に逮捕された。

その後の満洲地域

日本兵と日本人入植者


戦闘終了後、ソ連軍はほとんどの関東軍兵士を武装解除して捕虜とし、シベリアや中央アジアなどの強制収容所に送り、過酷な強制労働を課した。また、18歳から45歳までの民間人男性を有無を言わさず逮捕収用し、65万人以上の日本人が極度の栄養失調状態で極寒の環境にさらされた、このシベリア抑留によって、帰国できずに命を落とす者が25万人以上出たといわれる。一方、逃避行の果てに、ようやく日本へ帰り着いた入植者を含む日本人「引揚者」は、戦争で経済基盤が破壊された日本国内では居住地もなく、さらに治安も悪化していたため、非常に苦しい生活を強いられた。政府が満蒙開拓移民団 や引揚者向けに「引揚者村」を日本各地に置いたが、いずれも農作に適さない荒れた土地で引揚者らは後々まで困窮した。

統治


満洲はソ連軍の軍政下に入り、中華民国との中ソ友好同盟条約では3ヶ月以内に統治権の返還と撤兵が行われるはずであったが、実際には翌1946年4月までソ連軍の軍政が続いた。この間、ソ連軍は、東ヨーロッパの場合と同様に工場地帯などから持ち出せそうな機械類を根こそぎ略奪して本国に持ち帰ったりした。1946年5月にはソ連軍は完全に撤退し、満州は蒋介石率いる中華民国に返還された。しかし、その頃から農村部を拠点とする八路軍による中華民国軍へのゲリラ戦が活発化し、1948年秋の遼瀋戦役でソ連の全面的な支援を受けた中国共産党人民解放軍が都市部も含む満洲全域を制圧した。毛沢東は満洲国がこの地に残した近代国家としてのインフラや統治機構を非常に重要視し、「中国本土を国民政府に奪回されようとも、満洲さえ手中にしたならば抗戦の継続は可能であり、中国革命を達成することができる」として、満洲の制圧に全力を注いだ。八路軍きっての猛将・林彪と当時の中国共産党ナンバー2・高崗が満洲での解放区の拡大を任されていた。

中華民国政府は、行政区分を満洲国建国以前の遼寧・吉林・黒竜江の東北3省や熱河省に戻した。その後、後ろ盾であったアメリカからの軍事支援が減った中華民国軍は、ソ連からの支援を受け続けていた人民解放軍に敗北し、中華民国政府は台湾島に遷都した。1949年に中国共産党は中華人民共和国を成立させ、満洲国のあった地域に新たに内モンゴル自治区を設置した。

現在


満洲国の消滅後は、満州族も数ある周辺少数民族の1つと位置付けられ、「満洲」という言葉自体が中華民国、中華人民共和国両国内で排除されている。たとえば「満洲族」を「満族」と呼び、清朝の「満洲八旗」は「満清八旗」と呼びかえるなど、念入りである。今日、満洲国の残像は歴史資料や文学、一部の残存建築物などの中にだけ存在する。

地理


満洲国地図

主な都市






行政区分











上記の括弧に記載した省・自治区はこれらの満洲の省が属する現在の中華人民共和国の行政区分である。

  • 関東州 - 満洲国建国以前から日本の中国からの租借地であったが、満洲国建国後は満洲国の領土の一部とされ、満洲国からの租借地とされた。

人口


新京のキタイスカヤ通りにあるロシア人向けの店舗
1908年の時点で、満洲の人口は1583万人だったが、満洲国建国前の1931年には3000万人近く増加して4300万人になっていた。人口比率としては女性100に対して男性123の割合で、1941年には人口は5000万人にまで増加していた。男性の方が多かったことに移民国家としての側面が強かったことがうかがえる。台湾人も5000人移り住んだ。1934年の初めの満洲国の人口は3088万人、1世帯あたりの平均人数は6.1人、男女比は122:100と推定されていた。
人口の構成としては、

30,190,000人
(97.8%)
590,760人
(1.9%)
98,431人
(0.3%)


上記の『満洲人』の中には、68万人の朝鮮族も含んでいる。なお、都市部の住民は20%程度であった。新京・大同大街
ハルビンの「ときわデパート」
日本側の資料によると、1940年の満洲国(黒竜江・熱河・吉林・遼寧・興安)の全人口は43,233,954人(内務省の統計では31,008,600人)。別の時期の統計では36,933,000人であった。

主要都市の人口は下記のとおり。

営口 119,000人 180,871人
奉天 339,000人 1,135,801人
新京 126,000人 544,202人
ハルビン 405,000人 661,948人
大連 400,000人 555,562人
安東 92,000人 315,242人
吉林 119,000人 173,624人
チチハル 75,000人

統計の主体によって数値に大きな差がある。これは満洲国に国籍というものがなく、国勢調査が実質実施不能だったという事によるものである。また、満洲国の行政権が及ばなかった主要都市の満鉄付属地の人口を含むか含まないかが、統計によって異なったためでもある。

国籍法の不存在


満洲国においては最後まで国籍法が制定されなかったため、法的な意味においては、満洲「国民」は存在しなかった。国籍法が制定されなかった背景として、二重国籍を認めない日本の国籍法上、日本人入植者が「日本系満洲国人」となって日本国籍を放棄せざるを得ないこととなれば、新規日本人入植者が減少する恐れがあること、日本の植民地下にあった朝鮮人を日本国民として扱っていた朝鮮政策との整合性の問題などがあったと考えられる。

日本人の人口


1931年から1932年、満洲には59万人の在満洲の日本人がいて、うち10万人は農家だった。営口では人口の25%が日本人だったという。日本政府は1936年から1956年の間に、500万人の日本人の移住を計画しており、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。この移住は、日本軍が日本海及び黄海の制空権・制海権を失った段階で停止した。(後述

終戦時、ソビエト連邦が満洲に侵攻した際には、実に85万人の日本人移住者を捕獲した。公務員や軍人を例外として、基本的にはこれらの人は1946年から1947年にかけて段階的に日本に送り返されている。

ユダヤ人自治州


日本政府はユダヤ教徒によるユダヤ人自治州を企図しており、明らかにユダヤ人を必要としないナチス党率いるドイツ政府に対し、その受け入れを打診していた(河豚計画)。それは一種の亜流シオニズムとも言えるが、満洲国にユダヤ人自治州ができれば、アメリカ財界の中核をなすユダヤ人の巨額な支援が得られる事を狙ったものだという意見もある。同じ様な施策・構想として、ソビエト政府のユダヤ自治州ドイツ政府が検討していたマダガスカル強制移住構想があるが、その後戦禍に巻き込まれていった日満独については計画を遂行することはなく、第二次世界大戦勃発前後のドイツやソビエト政府によるユダヤ人政策を嫌い、満洲国経由でアメリカや南アメリカ諸国に亡命しようとしたユダヤ人のうち少数が、満洲国に移住しただけだった。

国家体制

政治


満洲国の初代内閣

満洲国は公式には五族協和王道楽土を理念とし、アメリカ合衆国をモデルとして建設され、アジアでの多民族共生の実験国家であるとされていた。五族協和とは、満蒙漢日朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うこと、王道楽土とは、西洋の「覇道」に対し、アジアの理想的な政治体制を「王道」とし、満洲国皇帝を中心に理想国家を建設することを意味している。満洲にはこの五族以外にも、ロシア革命後に共産主義政権を嫌いソビエトから逃れてきた白系ロシア人等も居住していた。その中でも特に、ボリシェヴィキとの戦争に敗れて亡ぼされた緑ウクライナウクライナ人勢力と満洲国は接触を図っており、戦前には日満宇の三国同盟で反ソ戦争を開始する計画を協議していた。しかし、1937年にはウクライナ人組織にかわってロシア人のファシスト組織を支援する方針に変更し、ロシア人組織と対立のあるウクライナ人組織とは断交した。第二次世界大戦中に再びウクライナ人組織と手を結ぼうとしたが、太平洋方面での苦戦もあり、極東での反ソ武力抗争は実現しなかった。

満洲国は建国の経緯もあって日本の計画的支援のもと、きわめて短期間で発展した。内戦の続く中国からの漢人や、新しい環境を求める朝鮮人などの移民があり、とりわけ日本政府の政策に従って満洲国内に用意された農地に入植する日本内地人などの移民は大変多かった。これらの移民によって満洲国の人口も急激な勢いで増加した。移民政策の成功は豊かな資源を持つ満洲国が日本にとっての『フロンティア』であったことを示している。

国家機関


国務院
満洲国政府は、国家元首として執政(後に皇帝)、諮詢機関として参議府、行政機関として国務院、司法機関として法院、立法機関として立法院、監察機関として監察院を置いた。国務院には総務庁が設置され、官制上は国務院総理の補佐機関ながら、日本人官吏のもと満洲国行政の実質的な中核として機能した(総務庁中心主義)。それに対し国務院会議の議決や参議府の諮詢は形式的なものにとどまり、立法院に至っては正式に開設すらされなかった。

元首


皇宮として建てられた同徳殿
元首(執政、のち皇帝)は、愛新覚羅溥儀が就任し、康徳4年(1937年)3月1日の帝位継承法制定以後は溥儀皇帝の男系子孫たる男子が帝位を継承すべきものとされた。また、帝位継承法の想定外の事態に備えて、満洲帝国駐箚(駐在)大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官との会談で、皇帝は、清朝復辟派の策謀を抑え、関東軍に指名権を確保させるため、自身に帝男子孫が無いときは、日本の天皇の叡慮によって帝位継承者を定める旨を皇帝が宣言することなどを内容とした覚書などに署名している。

行政


1932年(大同元年)の建国時には首相(執政制下では国務院総理、帝政移行後は国務総理大臣)として鄭孝胥が就任し、1935年(康徳2年)には満洲の独立宣言を発した東北行政委員会委員長の張景恵が首相に就任した。しかし実際の政治運営は、満洲帝国駐箚大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官の指導下に行われた。元首は首相や閣僚をはじめ官吏を任命し、官制を定める権限が与えられたが、関東軍が実質的に満洲国高級官吏、特に日本人が主に就任する総務庁長や各部次長(次官)などは、高級官吏の任命や罷免を決定する権限をもっていたので、関東軍の同意がなければこれらを任免することができなかった。

また公務員の約半分が日本内地人で占められていた。関東軍は満洲国政府をして日本内地人を各行政官庁の長・次長に任命させてこの国の実権を握らせた。これを内面指導と呼んだ(弐キ参スケ)。しかし、台湾人(満州国人)の謝介石は外交部総長に就任しており、裁判官や検察官なども日本内地人以外の民族から任用されるなど権逸、日本内地人以外の民族にも高位高官に達する機会がないわけではなかった。

以上の事実に鑑み、日本内地人が圧倒的優位に立つ植民地的国家であったという評価「(関東憲兵隊は)民族共和どころか民族間の反目、離間をはかることを統治手段とみていたことがうかがえる」(山室信一『キメラ―満洲国の肖像』中公新書1138、1993年、p.282)、菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』(講談社、2005年、p.313)、宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国』(PHP新書387、2006年、p.220)。がされることが多いが、日本内地人以外の諸民族も一定の地位を占めたことを重視して、五族協和の建前がある程度は実現されていたという評価もあるもある。

選挙・政党


憲法に相当する組織法には、一院制議会であるとして立法院の設置が規定されていたが選挙は一度も行われなかった。政治結社の組織も禁止されており、協和会という官民一致の唯一の政治団体のみが存在し、政策の国民への浸透や国政の指導を執り行った。

法制度


憲法に相当する組織法や人権保護法を始めとして、日本に倣った法制度が整備された。当時の日本法との相違としては人権保護法において平等権が規定されたこと、組織法において、各閣僚や合議体としての内閣ではなく、首相個人が皇帝の輔弼機関とされたこと、刑法における構成要件はほぼ同様であるが、法定刑が若干日本刑法より重く規定されていること、検察機構が裁判所から分離した独自の機関とされたことなどが挙げられる。

外交


満洲国を承認していた国。なお、連合国側に承認されていない国家も区切られているので注意が必要
自由インド仮政府、汪兆銘政権、蒙古聯合自治政府は丸印

1932年に国際連盟で否認されたとは言っても、満洲国はその後少なからぬ国家から承認を受け、外交関係を結んだ。第二次世界大戦の終結以前にはドイツ1938年2月承認『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』ハインツ・E・マウル 芙蓉書房出版 P.54)やイタリア1937年11月承認『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』ハインツ・E・マウル 芙蓉書房出版 P.55)、フィンランドをはじめとする枢軸国を中心として、タイ王国などの日本の同盟国とクロアチアなどの枢軸国の友好国、スペインバチカンデンマークなどの中立国をはじめ、以下の20ヶ国が承認をした。なお、第二次世界大戦が勃発した1939年当時の独立国の数は60カ国にも満たなかった。また、ドミニカ共和国エストニアリトアニアは正式承認しなかったが国書の交換を行った。また、連合国の1国であるソ連日ソ中立条約締結時に出された声明書で「満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵」を尊重することを確約し、正式な国交こそ結んでいなかったものの、事実上承認していたと言える。






(枢)のついている国は枢軸国(その後離脱した国を含む)。

軍事


日満議定書によって関東軍の駐留を認めた。満州国の国軍は、1932年4月15日公布の陸海軍条令をもって成立した。満洲国自体の性質上「関東軍との連携」を前提とし、当初は「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務とした、戦闘集団というよりは関東軍の後方支援部隊としての性格が強かった。後年、関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から、実質的な国軍化が進められたが、ソ連の対日参戦の際はソ連側に離反する部隊が続出し関東軍の防衛戦略を破綻させた。

経済


満洲中央銀行
満洲国内の綿農家

政府主導・日本資本導入による重工業化、近代的な経済システム導入、大量の開拓民による農業開発などの経済政策は成功を収め、急速な発展を遂げるが、日中戦争(日華事変)による経済的負担、そしてその影響によるインフレーションは、満洲国体制に対する満洲国民の不満の要因ともなった。政府の指導による計画経済が基本政策で、企業間競争を廃するため一業界につき一社を原則とした。

通貨


法定通貨は満州中央銀行が発行した満州国圓(元、yuan)で、1元=10角=100分=1000厘だった。当時の中華民国や現在の中華人民共和国の通貨単位も圓(元、yuan)で同じだが、中華民国の通貨が「法幣」と呼ばれたのに対し、満洲国の通貨は「国幣」と呼ばれて区別された。現在の中華人民共和国の通貨は人民幣(人民元)と呼ばれる。なお中国語では口語で元を塊 (kuai)、角を毛と置き換える事が多く、満洲在住の日本人は一般的に「エン」と呼んだ。国幣は中国の通貨と同じく銀本位制でスタートし、国幣1元=法幣1元であったが、1935年11月に日本と同じ金本位制に移行し、日本円と等価となった。このほか主要都市の満鉄付属地を中心に、関東州の法定通貨だった朝鮮銀行発行の朝鮮円も使用された。

満洲国崩壊後もソ連軍の占領下や国民政府の統治下で国幣は引き続き使用されたが、1947年に国民政府の中央銀行が発行した東北流通券に交換され、流通停止となった。

満州国建国以前の貨幣制度は、きわめて混乱していた。すなわち銅本位の鋳貨(制銭、銅元)および紙幣(官帖、銅元票)、銀本位の鋳貨(大洋銭、小洋銭、銀錠)および紙幣(大洋票、小洋票、過爐銀、私帖)があり、うち不換紙幣が少なくなかった。ほかに外国貨幣である円銀、墨銀、日本補助貨、日本銀行券、金票(朝鮮銀行券)、鈔票(横浜正金銀行発行の円銀を基礎とした兌換券)などが流通し、購買力は一定せず、流通範囲は一様でなかった。満州国建国のとき中央銀行が設立されるとともに旧紙幣の回収整理が開始され、康徳2年8月末までにほとんどすべてが回収された。こうして貨幣は国幣に統一され、鈔票の流通は関東州のみとなり、その額は小さく、金票は康徳2年11月4日の満州国幣対金円等値維持に関する日満両国政府による声明以来、金票から国幣に換えられることが増えて、満鉄、関東州内郵便局および満州国関係の諸会社の国幣払実施とあいまって国幣の使用範囲は広がった。国幣は円単位で、純銀 23.91g の内容を有すると定められたが、本位貨幣が造られないためにいわば銀塊本位で、兌換の規定が無いために変則の制度であった。貨幣は百圓、十圓、五圓、一圓、五角の紙幣、一角、五分の白銅貨、一分、五厘の青銅貨があり、紙幣は無制限法貨として通用された。紙幣は満州中央銀行が発行し、正貨準備として発行額に対して3割以上の金銀塊、確実な外国通貨、外国銀行に対する金銀預金を、保証準備として公債証書、政府の発行または保証した手形、その他確実な証券または商業手形を保有すべきことが命じられた。

郵政事業



皇帝溥儀を描く15分普通切手(1934年11月発行)
中華郵政が行っていた郵便事業を1932年7月26日に接収し、同日「満洲国郵政」(帝政移行後は「満洲帝国郵政」)による郵政事業が開始された。中華郵政は満洲国が発行した切手を無効としたため、1935年から1937年までの期間、中国本土との郵便物に添付するために国名表記を取り除き「郵政」表記のみとした「満華通郵切手」が発行されていた。同郵政が満洲国崩壊までに発行した切手の種類は159を数え、記念切手中国語では「紀念」と表記するが、「建国一周年記念」切手は日本語の「記念」表記となっているも多く発行した。日本との政治的つながりを宣伝する切手も多く、1935年の「皇帝訪日紀念」や1942年の「満洲国建国十周年紀念」・「新嘉坡(シンガポール)陥落紀念」・「大東亜戦争一周年紀念」などの記念切手は日本と同じテーマで切手を発行していた。

1944年の「日満共同体宣伝」のように、中国語の他に日本語も表記した切手もあった。郵便貯金事業も行っており、1941年には「貯金切手」も発行している。

満洲国で最後の発行となった郵便切手は、戦闘機3機を購入するための寄附金付切手だった。満洲国崩壊のために発行中止となり大半が廃棄処分になったが、第二次世界大戦後、満洲に進駐したソ連軍により一部が流出し、市場で流通している。

南満洲鉄道


満鉄のシンボル、特急あじあ
大連満鉄総部
日本の半官半民の国策会社南満州鉄道(満鉄)は、ロシアが敷設した鉄道を日露戦争において日本が獲得して設立されたが、満洲国の成立後は特に満洲国の経済発展に大きな役割を果たした。同社は鉄道経営を中心に満州航空、炭鉱開発、製鉄業、港湾、農林、牧畜に加えてホテル、図書館、学校などのインフラストラクチャー整備も行った。

満蒙開拓移民


満洲国の成立以降、日本政府は国内における貧困農村の集落住民や都市部の農業就業希望者を中心に、「満蒙開拓移民団」と称する移民組織を大々的に募集し多数の日本人を満洲に送った。この政策は、世界恐慌や凶作で経済が疲弊した日本国内から消費人口を減らす、いわば国家レベルでの「口減らし」という側面をもつ一方、徐々に世界から孤立し戦時体制へと歩んでいく日本への食料供給基地として、この開拓団に満洲を農地として開拓させることも意図していた。「外国」の満洲へ移住した開拓団員たちも、開拓移民団という日本人コミュニティの中で生活していたことに加え、渡満後もみな日本国籍のままであった。そのため、「自分たちは住む土地が変わっても日本人」という意識が強く、現地の住民たちと交流することはあっても「満洲国人」として同化することはまずなかった。

また満蒙開拓移民団の入植地の確保にあたっては、まず匪情悪化を理由に既存の農村を「無人地帯」に指定し、地元農民を新たに設定した「集団部落」へ強制移住させるとともに、政府がこれらの無人地帯を安価で強制的に買い上げて、日本人開拓移民を入植させることが行われた。地元農民は自らの耕作地を取り上げられる強制移住に抵抗したため、関東軍が出動することもあった。「集団部落」反日組織との接触を断つ為に、地元住民を囲い込む形で建設された。

このため地元住人たちの中には、日本人開拓移民団を自分たちの生活基盤を奪った存在としてあからさまに敵視する者が少なからずおり、開拓移民団員との対立やトラブルに発展するケースもしばしば存在し、抗日ゲリラの拡大につながった。これらは、後のソ連参戦時に開拓移民団員が現地人たちに襲撃される伏線となってゆく。

交通

鉄道


満鉄の列車

設立当時は日本の半官半民の国策会社であった南満州鉄道(満鉄)は、ロシアが敷設した鉄道を基礎に路線を拡張し、満州国一体で鉄道の運営を行っていた。新京 - 大連・旅順間を本線として各地に支線を延ばしていた。「超特急」とも呼ばれた流線形のパシナ形蒸気機関車と専用の豪華客車で構成される特急列車あじあ号の運行など、主に日本から導入された南満州鉄道の車両の技術は世界的に見ても高いレベルにあった。一方、満州国成立前から満鉄に対抗して中国資本の鉄道会社が満鉄と競合する鉄道路線の建設を進めていた。これらの鉄道会社は、満州国成立後に公布された「鉄道法」に基づいて国有化され、満州国有鉄道となった。しかし満州国鉄による独自の鉄道運営は行われず、即日満鉄に運営が委託されて、実際には満州国内のほぼすべての鉄道の運営を満鉄が担うことになった。また新規に建設された鉄道路線、1935年ソ連との交渉の末に接収された北満鉄路(東清鉄道)など私鉄の接収・買収路線も全て満州国鉄に編入され、満鉄が委託経営を行っていた。特に新規路線は建設から満鉄に委託と、「国鉄」とは名ばかりで全てが満鉄にまかせきりの状況であった。この他にも満鉄は朝鮮半島朝鮮総督府鉄道のうち、国境に近い路線の経営を委託されている。なお車両などは共通のものが広く使われていたが、運賃の計算などでは満鉄の路線(社線)と満州国鉄の路線(国線)に区別が設けられていた。しかしこれも後に旅客規程上は区別がなくなり、事実上一体化した。

満鉄は単なる鉄道会社としての存在に留まらず、沿線各駅一帯に広大な鉄道付属地を抱えていた。鉄道付属地では満洲国の司法権や警察権、徴税権、行政権は及ばず、満鉄がこれらの行政を行っていた。首都新京(現在の長春)や奉天(現在の瀋陽)など主要都市の市街地も大半が鉄道付属地であった。都市在住の日本人の多くは鉄道付属地に住み、日本企業も鉄道付属地を拠点として治外法権の特権を享受し続けたため、満洲国の自立を阻害する結果となり、1937年に鉄道付属地の行政権は満洲国へ返還された。

満鉄・国鉄の他にも、領内には小さな私鉄がいくつも存在した。これらの中には国有化され、改修されて満州国鉄の路線となったものや、満州国鉄が並行する路線を敷設したために補償買収されてから廃止になったものもある。以下に満州国が存在した時期に一貫して私鉄であったものを挙げる(※印は補償買収後に廃止になった路線)。


なお1940年前後から、満鉄が請負の形で積極的にこれら私鉄の建設に携わるようになり、戦争末期の頃には相当数の路線が満鉄の手によって建設されるようになっていた。ただしその多くが竣工する前、竣工しても試運転をしただけの状態で満州国崩壊に遭って建設中止となり、未成線になっている。

この他、首都・新京を初めとして奉天・哈爾浜など主要都市の市内には路面電車が敷設されていた。奉天では地下鉄建設計画もあったが、実現せずに終わっている(奉天市地下鉄道)。

航空


満洲航空の新型機(ユンカース86)の就航を祝う荷札

1931年に南満洲鉄道の系列会社として設立されたフラッグ・キャリア満州航空が、新京飛行場を拠点に満洲国内と日本(朝鮮半島を含む)を結ぶ定期路線を運航していた。中島AT-2ユンカースJu 86ロッキード L-14 スーパーエレクトラなどの外国製旅客機の他にも、自社製の満州航空MT-1や、ライセンス生産したフォッカー スーパーユニバーサルなどで満洲国内の主都市を結んだ他、新京とベルリンを結ぶ超長距離路線を運航することを目的とした系列会社である国際航空を設立した。

なお、満洲航空は単なる営利目的の民間航空会社ではなく、民間旅客、貨物定期輸送と軍事定期輸送、郵便輸送、チャーター便の運行や測量調査、航空機整備から航空機製造まで広範囲な業務を行った。

言語


満語と称された標準中国語と日本語が事実上の公用語として使用された。軍、官公庁においては日本語が第一公用語であり、ほとんどの教育機関で日本語が教授言語とされた。モンゴル語ロシア語などを母語とする住民も存在した。

教育


大同学院満洲国の教育の根本は、建国当初の院令第2号(1932年3月25日公布)に「各学校課程ニハ四書孝経ヲ使用講授シ以テ礼教ヲ尊崇セシム凡ソ党義ニ関スル教科書ノ如キハ之ヲ全廃ス」と定められているように、儒教精神の徹底であった。

なお、高等教育機関については 満州国・関東州の高等教育機関を参照。

教育行政は、中央教育行政機関は文教部であり、文教部大臣は教育、宗教、礼俗および国民思想に関する事項を掌理した。大臣の下には次長が置かれ、さらに部内は総務、学務および礼教の3司に分けられ、それぞれ司長が置かれた。

総務司は秘書、文書、庶務および調査の4科に、学務司は総務、普通教育および専門教育の3科に、礼教司は社会教育および宗教の2科に分けられ、それぞれ教育行政を掌した。視学機関は、督学官が置かれた。地方教育行政は、各省では省公署教育庁が、特別市では市政公署教育科が、各県では県公署教育局が、それぞれ管内の教育行政を司った。

小学校は、修業年限は6年で、初級小学校4年+高級小学校2年とするのが本体であったが、初級小学校のみを設けることも認められた。教育科目は、初級小学校は修身、国語、算術、手工、図画、体操および唱歌であり、高等小学校は、初級小学校のそれのほかに歴史、地理および自然の3科目が加えられ、その地方の特状によっては日本語をも加えられた。

後に、初級小学校は国民学校、高級小学校は国民優級学校にそれぞれ改称された。

教科書は、建国以前に用いられていた三民主義教科書は禁じられ、あらたに国定教科書が編纂され、使用された。なお、僻地では、寺子屋ふうの「書房」がなおも初等教育機関として残されていた。

中学校は、初級および高級の2段階で、修業年限はそれぞれ3年で、併置されるのが原則で、初級中等には小学校修了者を入学させた。教科目は初級は国文、外国語、歴史、地理、自然科、生理衛生、図画、音楽、体育、工芸(農業、工業、家事の1科)および職業科目で、一定範囲の選択科目制度が認められ、高級は普通科、師範科、農科、工科、商科、家事科その他に分かれ、その教育は職業化されていた。

師範教育は、小学校教員は、省立師範学校および高級中学師範科で、養成された。省立師範学校は修業年限3年、初級中学校卒業者を入学させた。普通科目のほかに教育、心理その他を課し、最上級の生徒は付属小学校その他の小学校で教生として教育実習を行った。高級中学師範科もこれとほぼ同様の教育内容であった。

実業教育は、簡単な実業教育機関は職業学校があった。その程度、内容はまちまちで、地方の状況に応じて商工業に関する実際的な教育が施された。

文化

映画


満洲映画協会のスタジオ
1928年に南満洲鉄道が広報部広報係映画班、通称「満鉄映画部」を設け、広報(プロパガンダ)用記録映画を製作していた。その後1937年に設立された国策映画会社である「満洲映画協会」が映画の制作や配給、映写業務もおこない各地で映画館の設立、巡回映写なども行った。

漫画


田河水泡の当時の大人気漫画「のらくろ」の単行本のうち、1937年(昭和12年)12月15日発行の「のらくろ探検隊」では、猛犬聯隊を除隊したのらくろが山羊と豚を共だって石炭の鉱山を発見するという筋で、興亜の為、大陸建設の夢の為、無限に埋もれる大陸の宝を、滅私興亜の精神で行うという話が展開された。序の中で、「おたがひに自分の長所をもって、他の民族を助け合って行く、民族協和という仲のよいやり方で、東洋は東洋人のためにという考え方がみんな(のらくろが旅の途中で出会って仲間になった、朝鮮生まれの犬、シナ生まれの豚、満州生まれの羊、蒙古生まれの山羊等の登場人物達)の心の中にゑがかれました。」とあり、当時の軍部が国民に説明していた所の「興亜」と「民族協和の精神」を知ることができる。

雑誌


新京の藝文社が1942年1月から、満洲国で初で唯一の日本語総合文化雑誌「藝文」を発行した。1943年11月、「満洲公論」に改題。

祝祭日

国花


国花国立公文書館アジア歴史資料センター「18.東京高等師範学校教授末松直次満州視察 昭和十一年十二月」レファレンスコードB05015686200

満洲国を扱った作品


満洲国生まれの著名人


建国から消滅までの期間に満州国で出生した日本における著名人。

脚注

参考文献


  • 浅野豊美『帝国日本の植民地法制――法域統合と帝国秩序』(名古屋大学出版会、2008年、ISBN 4-815-80585-7)
  • 加藤陽子『満州事変から日中戦争へ』岩波新書1046、2007年
  • 並木頼寿『日本人のアジア認識』世界史リブレット66、山川出版社
  • 黄文雄『満州国は日本の植民地ではなかった』ワック・マガジンズ、2005年
  • ブロンソン・レー(著),田村幸策(翻訳)『満洲国出現の合理性』 日本国際協会、1936年
  • 大杉一雄『日中戦争への道』講談社学術文庫1846、2007
  • 植民地文化学会・中国東北淪陥14年史総編室 (編集) 『「満洲国」とは何だったのか―日中共同研究』小学館、2008
  • 山田 豪一『満洲国の阿片専売―「わが満蒙の特殊権益」の研究』 汲古書院、2004
  • 塚瀬 進『満洲国―「民族協和」の実像』吉川弘文館、1998
  • 田中 隆一『満洲国と日本の帝国支配』有志舎、2007
  • 児島襄『満州帝国』(全3巻) 文春文庫 、1983年。

関連図書


  • 貴志俊彦『満洲国のビジュアル・メディア――ポスター・絵はがき・切手』吉川弘文館、2010
  • 山田勝芳『溥儀の忠臣・工藤忠――忘れられた日本人の満洲国』朝日新聞出版、2010

関連項目



外部リンク



*
中華民国の国際関係 (1912-1949)
昭和時代戦前の外交
昭和時代戦前の占領地政策
モンゴルの歴史
東アジア史
日中関係史
かつて存在したアジアの国家



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