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力道山(りきどうざん、男性、1924年11月14日 - 1963年12月15日)は、日本のプロレスラー。大相撲の力士出身。第二次世界大戦終了後に日本のプロレス界の礎を築き、日本プロレス界の父と呼ばれている。
人物
太平洋戦争前の日本併合下の朝鮮半島洪原郡新豐里(現在の北朝鮮統治範囲)出身。後に長崎県大村市の農家・百田家の養子となった。
本名は百田 光浩(ももた みつひろ)朝鮮名は金 信洛(キム・シルラク)。身長176cm(プロレス時代の公称身長は180cm)、体重116kg。朝鮮在住時代に既に結婚しており子供もいたことからみて、実際は公称生年月日よりも5年くらい早く生まれていると思われる。
来歴
力士時代
力士時代の力道山
二所ノ関部屋に入門し1940年(昭和15年)、朝鮮の六坮という明太の漁場の村で朝鮮相撲の大会に出場していた金光浩(金村光浩)を、当地で刑事補をしていた長崎県大村市出身の小方寅一と相撲好きの百田已之助(二所ノ関部屋の後援幹事、小方寅一の母親の再婚相手)がその体格と相撲素質に見惚れ、東京の二所ノ関部屋へ知らせた。二所ノ関親方・玉の海が朝鮮に渡って入門交渉をしたが、母親が反対し、急いで嫁を探して結婚式を挙げさせた。そして1942年(昭和17年)2月に入門した。親方の玉の海は、「国技の力士が朝鮮出身じゃまずかろう」と諭し、百田光浩、長崎県大村市出身という手筈が整えられた(金一勉『朝鮮人がなぜ「日本名」を名のるのか』)。、1940年5月場所初土俵、1946年11月場所に入幕し、入幕2場所目の1947年6月場所に前頭8枚目で9勝1敗の星をあげ、横綱羽黒山、大関前田山、同東富士ら3人と相星となり、この場所から設けられた優勝決定戦に出場した(優勝は羽黒山)。翌1948年5月場所では横綱照國とこの場所優勝した大関東富士を破り、さらに横綱前田山には取り直しの末、不戦勝となって殊勲賞を受賞している。1949年5月場所に関脇に昇進するが、1950年9月場所前に突然、自ら髷(まげ)を切り廃業。相撲界から引退時、百田の戸籍に長男として入籍朝鮮戦争勃発直後、日本へ帰化し、東京都中央区へ戸籍を移籍させ、百田已之助の長男に偽造した(金一勉『朝鮮人がなぜ「日本名」を名のるのか』)。
プロレス転身
その後二所ノ関部屋の後援者が社長を務める新田建設に勤務したが、ナイトクラブでの喧嘩が元でハワイ出身の日系人レスラー・ハロルド坂田(トシ東郷)と知り合い意気投合した(「プロレス修行」の項参照)。1951年9月30日から、アメリカのフリーメイソン系慈善団体「シュライナーズ・クラブ」(Shriners) が進駐軍慰問と障害者のチャリティーを兼ねて、母国からボビー・ブランズら6人のレスラーを招きプロレスを開催していたが、ハロルド坂田もこの一員だった。力道山は坂田の勧めで練習を見に行き、プロレス転向を決意し、港区芝にあったシュライナーズ・クラブで指導を受けるようになった。そして、1952年に渡米し、ホノルルで日系人レスラー沖識名の下で猛特訓を受けた。翌年帰国して新田新作と興行師永田貞雄の助力を得て日本プロレス協会を設立する。シャープ兄弟をはじめとする外人レスラーを空手チョップ(アメリカではジュードーチョップと呼ばれていた)でばったばったとなぎ倒す痛快さで、1953年にテレビ放送が開始されたことも重なり日本中のヒーローとなる。1954年12月29日、蔵前国技館で開催されたプロレス日本ヘビー級王座の決定戦で柔道王者の木村政彦に勝利し、日本のプロレス界を統一した。しかしながら、世紀の一戦が八百長崩れであることが明らかになり(プロレスに一定のストーリーがあるということは当時全く知られていなかった)、それ以後三大紙やNHK等の一般メディアの取材対象から外れることになる。また、シュライナーズ・クラブに慈善活動への協力を求められると力道山が金銭を要求したため、こちらとも縁が切れてしまった。
大相撲出身の力道山が天下を取ったことから相撲取りのプロレス界入りが増えた。日本のプロレス界に付け人等なにかと相撲の影響が残っているのはこれに由来する。
1955年には、キングコングを破ってアジアヘビー級王座を獲得。1958年には、ルー・テーズを破ってインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。1959年には第1回ワールドリーグ戦を開催し優勝する。1962年には、フレッド・ブラッシーを破ってWWA世界ヘビー級王座を獲得した。(WWA世界ヘビー級王座は、当時NWA世界ヘビー級王座と分裂していた王座である)
力道山はルー・テーズやパット・オコーナー、カール・ゴッチのようなストロングタイプともジェス・オルテガやフレッド・ブラッシーのような悪役・怪物タイプとも名勝負を残しているが、後者の方が手が合ったようである。
1958年4月、力道山をしたって密入国して横浜で逮捕された金一を、後見人である自民党副総裁・大野伴睦の政治力で日本在住を認めさせ、門下生にし、大木金太郎のリング名を与え、韓国名を用いることを厳禁した金一勉『朝鮮人がなぜ「日本名」を名のるのか』。
1963年1月、韓国側の招きで韓国を訪問し、金浦空港で体育協会、レスリング関係者約60人に出迎えられた。記者会見で「20年ぶりに母国を訪問でき感無量です。長い間日本語ばかりつかっているので、韓国語はさっぱり・・・」と言い、最後に「カムサ・ハムニダ」と付け加えた。その模様を『東京中日新聞』が「力道山、二十年ぶりに母国へ」の見出しと写真入りで掲載したところ、帰国した力道山は当新聞に激怒したという。
1963年5月24日、東京体育館で行われたWWA世界選手権・ザ・デストロイヤー戦は平均視聴率で実に64%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。現代に例えると2002年の日韓サッカーW杯の日本―ロシア戦の66.1%に匹敵するものであり、いかに力道山の人気が絶大であったかがうかがえる。
1963年12月8日午後10時30分に、遊興中の赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で、暴力団住吉一家傘下の大日本興業構成員であった村田勝志と足を踏んだ、踏まないで口論になり、馬乗りになって殴打したところ、村田に下から登山ナイフで腹部を刺された。だが、自ら持ちかけた喧嘩ということもあり表沙汰にはせず、知り合いの勤める山王病院に入院。12月15日に化膿性腹膜炎で死去した。戒名は大光院力道日源居士。
刺殺事件の顛末
山王病院
※ただし建物は現在のものである
1991年の大下英治による加害者への直接取材、その他により刺殺事件の顛末が明らかにされている。女性と話していた力道山の横を暴力団員村田勝志が通り掛る際、力道山が「足を踏まれた」と、後ろから村田の襟首をつかんだ。彼は踏んでいなかったので、「踏んだ覚えはない」と反論するが、口論となり、「あんたみたいな図体の男がそんなところに立っていたらぶつかって当然」と言い放つ。この時、村田は懐中に手をやる。それを見て力道山が「わかった。仲直りしよう」と言い出すが、それに対し彼は「こんな事されて俺の立場がない」と仲直りを拒否。和解を諦めた力道山が彼の顎を拳で突き飛ばす。彼は吹き飛んで壁に激突し、顎がガクガクになった。さらに力道山は彼の上に馬乗りになり激しく殴打する。彼は「殺される」と思い、ナイフを抜いて下から左下腹部を刺した。ナイフの刃は根元まで刺さったが、出血は衣服の上に染み出ていなかったという大下英治『力道山の真実』祥伝社文庫 2004年 参照 刺殺事件の顛末を加害者からの直接取材している。。
1日目は応急手当を受け帰宅。村田とは内内の話にするため手打ちの契約を行う。(村田の所属団体の長小林楠扶がリキアパート内の力道山宅を訪問、謝罪し「この責任は自分がとる」と頭を下げたところ、力道山も「わかった」と納得したという。)
2日目に症状が悪化したため入院、外科医に山王病院へ来てもらい30針縫う手術を受け成功。山王病院は産科婦人科が中心の病院だが、力道山がここを選んだのは、話を大きくしないため親しい医者のいる病院にしたという。側近たちは、赤坂にある有名な外科病院である前田外科への入院を勧めたが、力道山は嫌がったという。
7日目に腹膜炎による腸閉塞を理由に午後2時30分再手術。これも成功したと報告するが、その約6時間後午後の9時過ぎに死亡した。
なお、死因は正式には穿孔(せんこう)性化膿性腹膜炎とされているが、諸説ある。ある説は、手術の際、麻酔を担当した外科医が、筋弛緩剤注射した後に気管内チューブの気管挿管を失敗し窒息したという医療事故のためという土肥修司『麻酔と蘇生 高度医療時代の患者サーヴィス』(中公新書、1993年 ISBN 9784121011220)の「第2章」を参照。
また他の説は腹膜炎はほぼ完治に近い状態まで回復していたが、元々が力士出身であるため、食欲が非常に旺盛であった。腹膜炎を患っている期間は食事は勿論のこと、水の服用も厳しく制限される。大量の酒を毎日当たり前のように飲んでいた彼は、空腹に耐えきれず、付き人に行きつけの寿司屋に寿司を注文するように命令し、序でに酒も買わせた。届けられた寿司と酒を飲食して空腹感を抑えた彼であったが、寿司は生ものである。飲食した生ものやアルコールが完全に完治しきっていなかった患部に障り、これを以って病状が急変、急死したというのが真相であるという裏の裏まで取材し尽くした最も詳しい記事とされる当時のプロレス雑誌に記載されており、『プロレススーパースター列伝』のアントニオ猪木&ジャイアント馬場編にもその説を採用している。。
加害者の村田は、力道山の死を病院のベッドで聞いたという。犯行の当夜、大日本興業の所属する住吉一家と対立関係にあり、力道山とつながりの深い東声会の組員らにより暴行を受けて重傷を負い入院していたのである。小林楠扶がリキアパートに謝罪に赴いた際、村田も同行した。しかし、「直接顔を合わせると、先生が興奮してしまう」という力道山側近の判断から、村田は外で待機していた。この時、周辺に集まっていた東声会組員から激しい暴行を加えられたものである。村田は初めは、小林の立場を考えじっと耐えていたが、我慢しきれず力道山を刺した登山ナイフで、東声会組員一名を刺している。
人物
性格
性格的には粗暴で、感情の起伏が激しく、機嫌が良いときはボーイに1万円(※当時の1万円は相当な額である)のチップを渡すこともあったが、機嫌が悪いと飲食店での暴力沙汰は日常茶飯事であり、そのつど金で表ざたになるのを防いだ(泉麻人の著書「B級ニュース図鑑」によると一部の新聞紙上には「力道山また暴れる」と報道されているようだ)。粗暴な行為に関しては、本人の生来の激しやすい性格も一因ではあるが、晩年には肉体的な衰えをカバーするために試合前に興奮剤を服用しており、試合後にそのまま飲み屋に出掛けて行ったため、トラブルを引き起こしたという証言もある。またバックに就いていた東声会は、力道山のプロレス興行により莫大な富を手にすることともなった(ロバート・ホワイティング「東京アンダーワールド」など)。プロレスラーの遠藤幸吉を介して知り合った作曲家の古賀政男によると「力道山は直情径行で竹を割ったような性格。しかし頑固で人の意見を聞かないところがあった。話題の多いスポーツマンらしい、大粒の人物だった」と評している。
トラブル
このような粗暴な性格のため、トラブルに発展することが多く、前述のような些細なトラブルだけではなく、大きなトラブルにもなっている。例をあげると山口組ともめて監禁寸前にまでなったり、安藤組に対して誠実な対応を取らなかったため付け回され家に帰れなくなったり、フィリピンマフィアの顔役を橋から川に投げ込み揉めるなど、当時のプロレス興行がヤクザと密接な関係にあるにもかかわらず、誠実な対応をしないため、命を狙われることも少なくなかった。これらのトラブルは一般的に誠実に対応すればほとんどがトラブルにすらならないような瑣末な出来事ばかりである。命を落としたきっかけとなった事件も普通に考えれば、トラブルにもならない出来事である。どうも力道山は酒を飲んでのトラブルが多かったようで、暴力団山口組組長田岡一雄は「酒を飲まなければ・・・」と自伝で嘆いている。力道山は自身の性格がよくわかっていたのか、猟銃を合法的に数丁所持しており、妻の自伝によると拳銃まで所持しており、趣味の他、護身も兼ねていたようである。
このように、力道山は素行の面でいろいろと問題はあったが、日本のプロレス界の礎を築いた最大の功労者であることは間違いない(その人気と功績から、広辞苑にも名前が載っている)。生前は朝鮮人であることがほとんど知られていなかった──彼の相手レスラーを空手チョップで殴打する時の口癖は『この、朝鮮人野郎。』だった──こともあり、白人レスラーを次々と倒す姿は、敗戦後の日本人の一種愛国的な感情をも揺さぶり、国民的ヒーローとして熱狂的な人気を得たという点ではスポーツに限らず後にも先にもこれだけの存在はいない。「総理大臣の名前は知らなくても力道山の名前を知らない者はいない。」と言われた。テレビの普及にもはかりしれない貢献があった。
死去した日と同日に4代目の鈴々舎馬風が中風で死去したがスポーツ紙の一面が力道山の死で埋め尽くされたため一段のベタ記事扱いとなった。しかしそれを枕にした落語家はいなかったという。
家系関連
プロレスラーの百田義浩(元プロレスリング・ノア取締役)、百田光雄(現役・元プロレスリング・ノア副社長)は実息。自らが朝鮮人であることは生前は周囲に隠して生きており、力道山主演映画「力道山物語」でも「長崎県の貧しい農家で生まれ育った」という設定になっている。亡くなる10か月前に結婚した田中敬子(元日本航空客室乗務員。死後、百田姓から抜けた田中敬子は10か月の婚姻関係でしかなく、また死後は百田姓を抜いており、彼女が力道山の死後に数多くの力道山の自伝などを書くこと、またプロレス関係の仕事(IWGP管理委員、新日本プロレスグッズショップ経営)などに就くこと、現在でも「百田敬子」と名乗ることには批判も存在する。)はそのことを知っていたが、実息であった二人の息子は父である力道山の死後に知ったということである実息である義浩・光雄の二人は、無論その後本妻となる田中敬子との子供ではない(上記の通り、力道山と田中の婚姻は死の直前の10か月しかない)。この二人は、当時内縁の妻であった京都の芸妓との間に出来た子供だと言われている。力道山は生涯、田中敬子を含め4人の女性と婚姻関係にあったと言われ、朝鮮半島時代に一人、京都の芸妓(百田兄弟の母親)が二人目、日本橋の芸者(百田兄弟の育ての親)、田中敬子の順であった。なお彼の子供は5人おり3人は娘である。朝鮮半島時代に生まれた娘の夫である朴明哲(パクミョンチョル)は、2010年に北朝鮮の体育大臣になっている。百田兄弟の姉もおり、また力道山の死の直後には田中敬子が娘を出産している。その娘の息子は、慶應高校に進学して野球で活躍した田村圭選手である。。1984年週刊プレイボーイが、当時タブー視されていた力道山の国籍問題を「もうひとつの力道山物語」として報じた。それによると、力道山は15歳で来日する時、既に結婚し子供もいた。その後、2002年の釜山アジア大会で、力道山の孫娘が北朝鮮の重量挙げ監督としてエントリーして話題になった。北朝鮮では、「力道山は日本の憲兵に拉致されて日本の相撲界に入門、独力で逆境を乗り越えた民族の英雄」とするデマも伝えられているという。
強靱な肉体
自身を含めたプロレスラーの強靱な肉体に過信があったことは事実(客人の前で、馬場に度数の高い洋酒を一気飲みさせたり、猪木を走行中の自動車から突き落としたりして、強靱な肉体があるからプロレスラーは「ケロっ」としているというアピールを好んで行った)。梶原一騎原作の劇画「プロレススーパースター列伝」等で、手術後に飲酒をし、寿司を喰ったために腸閉塞を起こしたという話がまことしやかに出回ったこともあるがデマである。また、相手を威嚇するためにガラスのコップをバリバリと噛み砕いて飲み込む「人間ポンプ」という芸を持っており、ごく機嫌のいい時か悪い時に披露したという。
大きいイメージを持たすため実際より4cm身長をサバ読みした。それによりその世代のレスラーは4cmサバ読みしていることが多い。
力士として
番付では長崎県大村町の出身となっている。幕内通算11場所、75勝54敗15休(15休は引退廃業の場所の全休)。入幕2場所目の1947年6月場所、その場所から始まった優勝決定戦に進出している。廃業直前の2場所の成績は小結で10勝5敗、関脇で8勝7敗。当時の基準としては大関取りがかかった場所前の突然の廃業については、相撲界側に残る話では師匠二所ノ関との部屋の運営をめぐっての対立があったとされているが、力道山側の主張とは食い違い、現在となってははっきりしない。
一時期角界復帰の話も持ち上がり、実業界の有力者の仲介もあって決まりかかったが、力士会が反対して実現しなかった。なお同時期に元大関増位山の三保ヶ関も現役復帰の意向をしめしており、これも含めての反対だった。その趣旨は「一度引退を内外に表明して、引退相撲(その収益は力士当人に還元されるのが通例)まで開催した力士が、後で現役復帰を求めるというのは筋が通らない」とするもの。力士会が特に力道山個人の復帰を嫌ったという話ではない。
相撲界側で比較的力道山に好意的な証言者の一人として、二所一門の弟弟子だった横綱若乃花幹士 (初代)がいる。その著作などを読むと、気性は荒くしごきはきついが、稽古熱心なものには徹底的に目をかける兄弟子像が浮かびあがる。しかし、その若乃花にとっても「力道関」はもっとも恐ろしい兄弟子だったらしい。若乃花が夜遊びのために部屋を抜け出した際、オートバイを駆って追いかけ強引に連れ戻したのは、若乃花が脱走したと勘違いした力道山であった。ちなみに、プロレス時代の力道山が常に黒いタイツを着用し、素足を見せなかったのは、大相撲時代に、若乃花がしごきに耐えかね、力道山の足に噛み付いた時の歯形が残っていたからとも言われている。
珍記録としては、3場所連続で同じ相手(前田山)から不戦勝をあげるなどした。また、最後の優勝旗手になった力士でもある。
プロレス修行
二所ノ関部屋を自ら髷を切って引退した力道山は、横綱東富士の後援会長で新田建設社長の新田新作の下で働く。新田はかつて生井一家の鈴木栄太郎(人形町の大親分で、戦前の国家団体である関東国粋会副幹事長であった)の跡目に擬された男だったが、戦後はやくざの足を洗い連合軍とコネをつなぎ羽振りがよく、戦災により焼け落ちた国技館を復興するために資材を集めて仮の国技館を創設したとされ、全国の親分衆とのつながりがあった。新田は、力道山の相撲界復帰のために尽力するが、結局実現しなかった。力道山は同じころ、プロレス慰問興行のため来日中のハロルド坂田(トシ東郷)に出会う。ハロルド坂田はハワイ生まれの日系二世で、ロンドンオリンピック重量挙げのアメリカ代表で銀メダリストだった。当時のハロルドはハワイの英雄として売り出し中のプロレスラーで、日本でのプロレス興行のプロモートを模索している途中だった。ハロルド坂田に誘われて、力道山は1951年10月28日、メモリアルホール(旧国技館)で、統一前のNWAの元世界チャンピオン、ボビー・ブランズとエキシビションマッチを行い引き分ける。
力道山の素質に惚れたボビー・ブランズは、ハワイ興行に力道山を誘うが、新田社長の許しが得られなかったため、日新プロダクションの永田貞雄に相談する。永田は、横綱千代の山の贔屓筋で、浪曲や歌謡曲などの興行を手がけている人物であった。永田が新田を説得し、力道山はハワイへ行くことになる。
1952年2月17日、ハワイ・ホノルルのキングストリートにあるシビック・オーデトリアムで、力道山は記念すべき海外遠征初試合を行う。相手はチーフ・リトル・ウルフというインディアンレスラーで、勝利を収めた。ハワイでのプロレス興行は黄金時代で、日系人1世、2世の観客の間で力道山人気は爆発した。このとき力道山のハワイでのトレーナーは、後の日本プロレスでレフェリーとなる、沖識名であった。沖の助言もあり、黒のロングタイツに空手チョップというスタイルは、この頃ハワイで作られた。
その後、1952年6月10日に、アメリカ本土のサンフランシスコへ乗り込む。
弟子教育
力道山の死後プロレス界を支えた両巨頭であるジャイアント馬場、アントニオ猪木も彼の弟子であった。力道山は、プロ野球出身で知名度もあり、肉体的に恵まれていた馬場をスター候補としてデビュー当時より特別扱いしていたが、猪木への対応は「靴べらで顔を殴る」「飼い犬を番犬として教育する際の実験台にする」「少年の猪木に一升瓶の日本酒を一気飲みさせる」「意味もなくゴルフクラブをフルスイングして側頭部を殴打する」など、極めて冷酷なものであったと言われている(猪木自身が一部語り、古いスポーツ紙の記者もそれを書いている。近年でも、当時は本気で殺意を覚えたと語る事も)。その一方で、弟子の中で、力道山が本心から一番可愛がっていたのは馬場でも猪木でもなく、同じ朝鮮民族出身の大木金太郎であったともいう。弟子の教育には合理的な面もあり、一度目のアメリカ武者修行で大成していた馬場が、アメリカ側から催促されていた時に、「お前だけすぐにアメリカに出したら周りの奴に妬まれる」と時間を置いて出発させたという馬場自身の証言があり、まだ付き人だった猪木には「ウェイトが100キロを超したら武者修行に出してやる」と約束していたという。結局、力道山の生前には猪木のアメリカ修行は無かった。
実業家として
リキマンション
壁面に力道山のイニシャル「R」が描かれている。
2010年5月時点で現存している。実業家としても成功し、赤坂に自らの住居も兼ねた高級アパートのリキ・アパート、ナイトクラブのクラブ・リキ、さらに「リキマンション」と名づけたマンションの奔りである高級賃貸住宅を建てた。
渋谷には「リキ・スポーツパレス」という地上9階建てのプロレスの常設会場を作り、その中には「リキトルコ」トルコ=ソープランドではない、ただのサウナ風呂であることに注意。やビリヤード場、ボウリング場などを併設した「リキレストラン」を建設した。ボクシングジム経営にも進出している。
死の少し前には、相模湖畔に、自動車レース場・射撃場・室内スケートリンク・モーテル等レジャー施設を併設した大規模なゴルフ場、「レイクサイド・カントリークラブ」の建設を始めていた。広大な土地を購入し、会員権を販売し、一部工事にも取りかかったが、死去により未完に終わった。跡地は売却されて、現在、さがみ湖リゾート プレジャーフォレストとなっている。また、三浦半島の油壺にも8000坪の土地を購入しており、家族で楽しめるマリンリゾートの建設を計画していた。
タイトル歴
- 日本ヘビー級王座(初代王者。日本ヘビー級王者を名乗ったのはプロレス史上力道山だけである)
- 世界タッグ王座(シャープ兄弟から獲得。パートナーは遠藤幸吉。短期間の保持だった。)
- WWA世界ヘビー級王座
- インターナショナル・ヘビー級王座
- アジアヘビー級王座
- アジアタッグ王座(パートナーは豊登、吉村道明)
- ハワイ太平洋タッグ王座(パートナーは東富士)
フィルモグラフィ
力道山は生前、28本もの映画に出演した(1952年 - 1959年)。日本プロレス発足以来、映画各社から出演がオファーされた。人気絶頂期の力道山は、映画スターでもあった。1956年に公開された『怒れ! 力道山』(東映東京)では、国会議員に指示された鉄砲や日本刀で武装したヤクザとキャバレーで格闘して負傷するシーンがあり、力道山の死に方に似ていると話題を呼んだ。
また北朝鮮でも力道山に関する作品が製作されている。
主な主演作品
- 1952年 薔薇と拳銃 監督志村敏夫、主演鶴田浩二 ※映画デビュー作
- 1954年 力道山の鉄腕巨人 監督並木鏡太郎、共演松島トモ子
- 1955年 力道山物語 怒涛の男 監督森永健次郎、共演河津清三郎、美空ひばり
- 1956年 力道山 男の魂 監督内川清一郎、共演宮城まり子、森繁久彌
- 1956年 怒れ! 力道山 監督小沢茂弘、共演早川雪州、杉狂児、益田キートン
- 1957年 純情部隊 監督マキノ雅弘、共演星美智子、東千代之介
- 1959年 激闘 監督岩城其美夫、共演南原伸二、三上真一郎 ※生前最終作
- 1983年 ザ・力道山 監督高橋伴明、音楽山下洋輔 ※ドキュメンタリー
テレビドラマ
2本のテレビドラマに出演している。
- 1955年 力道山の夢 作青江舜二郎、共演伊藤彰敏、伊東絹子 ※日本テレビ、単発ドラマ
- 1962年 チャンピオン太 作梶原一騎、監督高橋繁男、力道山の他に出演したのは豊登、死神酋長、吉村道明、沖識名、遠藤幸吉、九州山 ※国際放映・フジテレビ、連続ドラマ
演じた俳優
力道山をテーマにした映画、テレビドラマ作品がある。
著書
- 「空手チョップ世界を行く―力道山自伝」ベースボール・マガジン社 1962年
参考書籍
- 土肥修司 1993年 「麻酔と蘇生」(中央公論社) - 死因に関する外科医の証言
- 原田久仁信作画、原康史原作、百田光雄監修、2003年 「プロレスヒーロー列伝 力道山 苦難のアメリカ修行編」 実業之日本社
- 百田光雄 「父・力道山」 小学館文庫
- 「国会会議録・第46回国会予算委員会第4分科会第2号」
- 猪瀬直樹 「力道山とテレビの揺籃期」
- 吉村義雄 「君は力道山を見たか」 飛鳥新社 1988年
- 大下英治 「永遠の力道山―プロレス三国志」 徳間書店 1991年
- 牛島秀彦 「大相撲・プロレス・ウラ社会」 第三書館 1995年
- 李スンイル 「もう一人の力道山」 小学館文庫 1998年
- 安部譲二 「日本怪死人列伝」扶桑社文庫 2004年
- 原康史「激録力道山」東京スポーツ新聞社
関連項目
- エディ・タウンゼント - 力道山に招請されて来日したボクシングトレーナー
- CR力道山 - デジパチ機。大当たり図柄がない珍しい機種。
- 富士通ゼネラル - 力道山のスポンサーを前身である八欧電機→ゼネラルが務めた。(シャープ兄弟のスポンサーはシャープの前身である早川電機)
- 大野伴睦 - 自由民主党副総裁、日本プロレスリングコミッショナー。
- 押山保明 - 無声映画の監督、映画プロデューサーから日本プロレス宣伝部長に。
- 木村政彦
- 張本勲
- 若木竹丸 - 力道山の肉体改造に多大な影響を与えた。
- 中村日出夫 - 空手チョップを伝授した。
- 児玉誉士夫 - 日韓国交樹立の前段階として力道山に韓国訪問を要請した。
- 町井久之 - 韓国訪問は町井のコネクションを通じて行われた。
- 三菱電機-八欧電機との関係が切れた後のメインスポンサー。力道山の死後も日本プロレスとの関係は続いた。
- 今里広記-有力な後援者
- 長谷川町子 ー 彼女の自伝によれば、家出していた際の宿泊先で彼の死を新聞で知り、家出中に抱いていた心境の変化が起きたという(彼女にとってはターニングポイントだったらしい)。
脚注
外部リンク
- 相撲レファレンス 選手データ
- ISIS本座「まぼろしのテレビ局」大阪におけるテレビ中継に関する記事あり
長崎県出身の人物
咸鏡南道出身の人物
二所ノ関部屋
長崎県出身の大相撲力士
日本統治時代の朝鮮・台湾出身の大相撲力士
朝鮮
朝鮮系日本人
日本プロレス
日本プロレスに所属していたレスラー
元大相撲力士のプロレスラー
在日韓国・朝鮮人のプロレスラー
プロレス・エグゼクティブ
プロレス・トレーナー
日本の実業家
馬主
殺人被害者
1924年生
1963年没